早稲田大学応援部前史―NHK連続テレビ小説『エール』第8週「紺碧の空」編 第3・4日

2020年5月21日 OB.OGニュース

『エール』第8週「紺碧の空」も、古山の自身の音楽が認められない第3日、田中団長の思いに心を動かされる第4日ときて、いよいよ明日、紺碧の空が聞ける日が来ることでしょう。

 

さて、『エール』で「紺碧の空」作曲を依頼したのは、三浦貴大が演じる早稲田大学応援部団長田中隆です。この「応援部団長」という呼び方に違和感を覚える方もいらっしゃるのではないでしょうか。現在の応援部の学生代表は「主将」と呼びますが、当時は「部」なのに「団長」でした。

『エール』の公式Twitterには以下のような説明があります。

 

 

(※『エール』にて応援演技指導を担当しているのは、応援部リーダーコーチ笹山俊彦さん[平成14年度リーダーOB]です。)

 

「それまでのならわし」を説明するには、歴史的背景をもう少し見ておく必要があります。

早稲田大学における組織応援のはじまりは明治38(1905)年の早慶戦です。アメリカ遠征から帰ってきた早稲田大学野球部が慶應義塾大学野球部と試合するにあたって、アメリカの野球応援方法をもとに、早稲田大学の寄宿舎生を中心に応援隊を組織しました。この応援隊の隊長は、大河ドラマ『いだてん』にも出てきた吉岡信敬です。この応援隊長による応援が組織的応援の始まりです。

しかしながら、翌明治39(1906)年秋の早慶戦で、早慶両校の学生が過激化して暴徒と化すおそれがあったことから、第3回戦が中止となり、以後19年間にわたり開催されませんでした。早慶戦の中止後、「応援隊」は「応援団」と呼ばれるようになり、一時は大学の公認を得ましたが、自然消滅していきました。

早慶戦が復活したのは大正14(1925)年秋ですが、復活当時は応援団が正式に組織されたわけではなく、学生が勝手に飛び出してリードを始め、しかもそのような集団がいくつもスタンドで乱立する有様でした。応援の内容も侮辱といった粗野な内容でした。

昭和4(1929)年には、応援団は山本豊の一派と村上正の一派とにまとまってきたのものの、両派間の紛糾は絶えませんでした。昭和5(1930)年になると、新制応援団が組織されました。従来の応援団(山本派と村上派)も団員にいましたが鳴りを潜め、それまでの暴力的・バンカラなイメージを脱却するため「応援団」から「応援部」へと名を改めたのです。ただし、それまで「応援団」と呼ばれていた経緯があり、応援部の代表のことを「団長」と呼んでいたのです。この応援部の団長を昭和6(1931)年から務めたのが溝口五郎でした。そして、この溝口五郎こそが紺碧の空が完成したときの団長であり、田中隆のモデルなのです。

 

「応援部団長」という聞きなれない呼び方には、以上のような背景がありました。なお、この応援部は「紺碧の空」完成後、次第に内部分裂と暴力化がみられるようになり、野球部や警察とトラブルを起こし、昭和9(1934)年に解散となります。その後の応援は早稲田大学体育会各部の代表が応援委員として早慶戦の応援団を組織しました。この応援委員の傘下に解散した応援部の中で健全な人格・思想を持っていた部員が応援技術員として応援をリードしました。この応援技術員が中心となって「応援技術部」を組織し、昭和16(1941)年に応援技術部として独立・体育会の公認を得ることとなります。この応援技術部が戦後、「応援部」として再建され、現在に至っています。なお、応援部の設立は、応援技術部が代表委員制(部の代表を代表委員と呼ぶ)を採用した昭和15(1940)年としています。(現在の応援部は、主将と主務が代表委員を務めており、そのため正式には「代表委員主将」「代表委員主務」と呼称します。)

 

少々長くなりましたが、「応援部団長」の謎と、それにまつわる応援部の歴史を紐解いてみました。
「紺碧の空」誕生エピソードも残り2日となりました。最後までどうぞご覧ください。

 

参考:『創部70周年記念早稲田大学応援部史』(早稲田大学応援部創部70周年記念事業実行委員会編,2010年)